歴史散歩

庚申塚

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石神井公園へ鳥観に行く途中にあった

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観音坂のおさんやさま

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立科町塩沢の石に刻まれた観音像。建立年以外に由来その他が分からないようだ。時代背景を「塩田歴史年表」で見てみた。

1783(天明3)年  浅間山大噴火。鬼押出が出現、被害甚大。
1784         この年全国大飢饉。
1785         上田領ひでり被害甚大。
1787         米価上がる。全国各地で餓民蜂起。小山磯之丞獄死。

小諸領の「おさんやさま」の辺りも事情は同じだったのだろう。

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塩田平 延宝の義民

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青木村細谷生まれの栗林一石路の句に「義民いま神として冬の山はあり」がある。塩田平にも「徳王大神」という神号で祭られている義民がいた。平井寺村の庄屋林徳左衛門(生年不明~1675)だ。

1675(延宝3)年は信州東北部は大凶作だった。平井寺村の農民は年貢の軽減を願い出ようと話し合った。だが自ら訴え出る人はいなかった。そこで徳左衛門が単身で越訴(おっそ:順序を越えて、直接、上級の役所へ訴え出ること)した。願いは聞き入れられたが徳左衛門は処刑された。

徳王大神の祠があることは知っていたが場所が分からなかった。図書館で借りた本を読んでいたら平井寺の古川神社境内にあるのが分かったので出かけた。上田市指定保存樹林の杉林の中にあった。平井寺トンネルのそばだった。

なおこの義民の名が資料によって徳左衛門だったり徳右衛門だったりするので困っていたが徳左衛門が正しいようだ。

(参照文献:横山十四男著『上田藩農民騒動史』平林堂書店)

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性の神様

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先日どこかの県の条例が改定された。なんでも温泉地での一切の混浴を禁じていたらしい。夫婦や親と幼い子の混浴も禁止だったというからあきれた話だ。

話は少し違うが、性の神様を信仰するのは原始時代からあった。豊作を願う農業祭でもセックスを連想させるものが多い。文明開化の時代、政府は性の神様を根絶しようとした。しかし、山奥まで調べるわけには行かなかったのだろう。長野県下に数多く残っている。中でも上田市殿城区赤坂地籍の男石様は見事なものだったそうだ。木で作った男のシンボルが随神門辺りに山積みだったらしい。今は通りすがりに見えるところにはなにもない。格子の間から覗き見はできる。やはり圧倒される。ここに写真は載せないが醜悪なものと見るのは間違いなのだろう。切実な願いを託した人たちがいたに違いない。なお修那羅峠の安宮神社子安様は女性の神様である。こちらは俗人の手のとどかぬところに女神をかくしてしまったらしい。


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日向畑遺跡

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この遺跡は、一昨年、角間渓谷へ行った帰りに寄ったことがある。その時の記憶はとくにない。今回は近くに真田信繁(幸村)の幼い時の木像(地元の人はアンチラ様と呼んでいる)があるらしいので探しに行った。見つからなかったが遺跡をあらためて見物してきた。教育委員会の説明を下に書き写す

この周辺は真田氏の最初の居館跡と考えられている。
遺跡はその西側部分にあり発掘調査の結果、五輪塔・宝篋印塔を墓標とし、火葬骨を埋葬した墳墓であることがわかった。
石塔群の形態からみて、室町時代から戦国時代(14世紀末ー16世紀末)にかけての遺構と考えられ、付近の歴史的考察から真田氏に関係があったとみられる。

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小山磯之丞

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下室賀の専念寺。初めて行ったのは4年前だったと思う。案内板にある小山磯之丞の墓はすぐに分かった。どういう人物なのか当時は検索しても全く分からなかった。今日、UCV(上田ケーブルビジョン)レポートで9月8日の供養祭が行われたのに気づいた。 天明の大飢饉の時、村民と結束して庄屋や上田藩と争い、役人の不正を糾し、村の土地を取り返したが上田藩に捕えられ獄死したという。 義民というと青木村や丸子の長瀬を思い浮かべるが、塩田にもいたし室賀にもいたのだ。

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活文禅師

 
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和田宿本陣跡近くにある信定寺
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蒼久保の龍洞院。1504(永正1)年、村上義清の祖父砥石城主村上右京大夫が神畑の鳳林寺を改名して開創。天正5年現在地に移転。
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Zyuku
常田の毘沙門堂跡
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Katumon2
門に雅客至る無し 坐してあに清風に乏しからんや

碑所在地:龍洞院

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戌の満水塔

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塔は田中の仁王尊のある薬師堂境内にある。
戌の満水について書く力を持たない。そもそも数年前まで知らなかった。秋和の正福寺の供養塔を見て気づいた。いろいろ資料を読んだ。古くは昨年墓を探しに行った瀬下敬忠の『千曲の真砂』も覗いてみた。ますます要領よくまとめられなくなった。あきらめた。
下のURLをご覧頂きたい。

戌の満水



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石尊之辻

丸子の文化財マップに小さい字で「力士雷電ゆかりの石尊之辻」と載っているのに気づいた。「辻」に引きずられて探すのに時間がかかった。辻とは道の交差するところのことだ。あとになって気がついたのだが、長和町大門の「高辻」を見たとき少し考えて、土を捏ね上げた築地(ついじ)がつじ(辻)になったのではと勝手な結論を下したことがある。つまり土俵のことだと。だが違うような気もする。辻占い、辻商い、辻説法などのように、ただ街角で相撲の稽古をしていただけなのかもしれない。
相撲の辻とは何か、ご存知の方のご教示をたまわりたい。

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東京から来た新幹線が依田川を渡る直前の所にある。

Sekison2


丸子に限らず上小は相撲が盛んな土地だったのだろうか。相撲好きがこうじた上田藩士が侍をやめて江戸相撲の行司として大成し、力士を引き連れて上小の神社などで相撲を奉納したと聞いたことがある。
毎夏、伊勢ノ海部屋が御岳堂の岩谷堂で合宿すると新聞で見た記憶があるが今も続いているのだろうか。

Takatuzi_1
これが大門にある高辻。


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家紋

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 三角形の連結した図形を鱗紋という。正三角形と二等辺三角形のものがある。鎌倉時代の北条氏は二等辺三角形の三鱗紋を用いていた。ということになれば、塩田にこの紋を受け継いでいる家があっても不思議ではない。

 我が家紋などに興味はないが、歴史上意味あるものには、少し、注目してもいいような気になった。

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三鷹の由来

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 標石には「従是東西北尾張殿鷹場」とある。

 「三鷹」とは徳川御三家の鷹場があったからだという人もいるが少し違うようだ。明治時代、野方・世田谷・府中の3領内の旧10ヶ村が合併して三鷹村ができた。旧10ヶ村には幕府の鷹場村が含まれていたことから名づけられたという説が有力なようだ。

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義仲忌

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 木曽義仲は、寿永3(1184)年1月20日(陰暦)、粟津で非業の最期をとげた。
『平家物語』は義仲を言葉も作法もわきまえぬ田舎者として描いている(巻8・猫間)、一方、情愛あふれる義仲の人間性を伝えてもいる(巻9・木曽最期)。
江戸川柳などは信州を田舎の代表として笑いの対象としたのは前者の影響だろうか。

     そばがきを猫間の供にやたら()

     生つばを吐き吐き巴切って出る

しかし、頼山陽は『日本外史』で義仲贔屓の文を記している。芭蕉にいたっては、生涯最も好意を持ったのは義仲であり、あこがれの地は木曽であったという。

     義仲の寝覚の山か月悲し

     木曽の情雪や生えぬく春の草


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義仲末裔の墓

Kiso
 府中の大国魂神社へ初詣に出かけた。大変な人出だった。
 ついでなので、神社近くの古刹高安寺に寄った。寺は来たことがあるが墓地に入るのははじめてだ。
 木曽源太郎義顕(1839~1918)は木曽義仲25代目の末裔で熊本藩士の子に生まれた。脱藩して倒幕運動に身を投じ、文久3(1863)年、生野の変に参加した。維新後、伊勢度会府判事、護王神社権宮司、湊川神社や鎌倉宮の宮司を歴任。晩年は大樹庵と号し、長女の嫁ぎ先(府中)に隠棲した。墓は東京都文化財旧跡に指定されている。 昨年梅が咲く頃、府中市の博物館で『府中市の文化財』という小冊子を入手し、義仲の子孫の墓があるのを知った。
 義仲には親近感がある。
 源平盛衰記によれば、丸子の依田城が木曽義仲挙兵の地だという。そして砂原峠を越えた塩田平には、巴御前と山吹御前の墓(富士山町屋)、塩田八郎高光居館跡(五加)、手塚太郎金刺光盛居館跡と供養の五輪塔と唐糸観音(手塚)、義仲碑(八木沢天満宮境内)などと義仲ゆかりの事物・伝承がいくつもある。

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城一つ

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 上田城跡公園が松本城公園とともに長野県下では2件「日本の歴史公園百選」に選ばれた。選考基準は「優れた歴史的・文化的資源を持ち、地域活性化に貢献している歴史公園」とある。先に松本城と上田城は「日本百名城」に選ばれている。
 上田城は小県の土豪小泉氏が支城を築いたときに始まるとも伝えられているが、天正12(1584)年に真田昌幸が竣工させた。西櫓の下、現在駐車場になっている所は、千曲川の枝川の尼ヶ淵があったので尼ヶ淵城とも呼ばれた。

 城跡公園の西端に川柳の碑がある。

              真田父子を偲びて

     城一つ伸びゆく街の灯を見つめ      

                            (金子)呑風

 この碑は泥だらけだった。落ち葉などで少しきれいにしてから写真を撮った。拓本を取る人たちは、先ず、たわしなどで碑面の埃や汚れを掃除するそうだ。下手な写真が少しでも良く見えるよう見習いたい。
碑面の右側に「長野県川柳団」と刻んであるが、ネット上の検索ではどんな団体か、現存するのか分からなかった。
 昭和35年5月建立、揮毫は自筆。


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真田井戸

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 上田城跡公園内の真田井戸に小学生だったとき以来約60年ぶりに寄ってみた。たびたび上田城に来ているのに寄らなかったのは真田神社に近づくと全く趣味に合わない音楽が聞えてくるのが嫌だったからだ。
 井戸の蓋に小さな穴が開いていたので中の写真を撮ってみた。井戸の水にフラッシュ光が写っていた。立札に小学生時代からの記憶と異なることが書いてあった。井戸には千曲川原に通じる抜け穴があると思っていた。
 ところで、先週の水曜日にNHKの「その時歴史は動いた」で「我が手に郷土を~真田昌幸・信州上田の市民戦争~」を放送するはずだったが、津波報道で中止になった。今夜10:00から放送するらしい。飲み過ぎないようにして待つことにする。


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女性の願文

Kisyomon 生島足島神社に武田信玄関係の起請文・願文・朱印状など94通が奉納されていて、国重要文化財に指定されている。境内の歌舞伎舞台に写真が展示してあり無料で見ることができる。11月4日参拝したおりに、カラー写真で読み下し文と現代語訳のついた本が置いてあったので購入した。国重要文化財生島足島神社文書が自宅で読めるとはありがたいことだ。
 興味深いものがあった。室賀信俊の妻壱吐と、信俊の弟経秀の妻みかわ連署の願文が載っている。室賀兄弟が徳川軍に包囲され長篠城に籠城していた時、無事帰還を祈ったものだ。留守を守る妻たちが戦場の夫の無事を祈るのは古今東西かわりないことだろう。この時代の女性の願文や花押は珍しいものだそうだ。残念ながら、文書の性質上ここに転載できない。

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上田原古戦場

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 天文17(1548)年2月14日早朝、雪の大門峠を越えて来た武田勢と葛尾城に勢ぞろいし、千曲川を渡り、室賀峠を越えて来た村上勢が上田原で激突した。甲州勢の死者1,200、村上勢1,700というから物凄い戦いだったのだろう。
 上田市下之条の田圃の中にこの戦で討ち死にした武田の武将板垣信方を祀った小さな神社がある。タバコ一本を供えてきた。句碑がある。
      ものゝふの夢さますなよ鉦叩   里庵

板に書いた歌もあった。
      ひるがえる風林火山今はなく
        信形の墳苔むしてあり   乙杉

 頼みの有力な武将を何人も失い、自身も傷ついた信玄は、3月5日、諏訪の上原城に退却した。

 すぐそばに村上方の重臣屋代源吾の墓もある。
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赤松小三郎 

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 上田城跡公園には何度も行っている。いくつもの碑があるが、白雄をはじめ句碑などにだけ気をとられていて、今回の塩田行まで、かつての門人東郷平八郎の揮毫による赤松小三郎(1831~1867)の碑があるとは知らなかった。そういえば、東郷平八郎は明治35年上田に来遊するまで小三郎が上田藩士であることを知らなかったらしい。
 わが国の兵制の基礎となった『英国歩兵練法』で名を高めた。幕府顧問松平春獄に提出した『御改正之一二端奉申上候口上書』は坂本竜馬の公議政体論より約6ヶ月も早く議会政治を提唱した画期的なものである。慶応3(1867)年、幕探の疑いで薩摩藩士桐野利秋らに暗殺された。というような事は他に詳しく解説したホームページがいくつもあるのでそちらをご覧いただきたい。
 安政2(1855)年勝海舟に従って長崎海軍伝習所に行き、蘭学・英学・兵学・航海術などを修めたのに、万延元(1860)年の咸臨丸渡米の一行に加えられなかった。そのときの心情はどんなものだっただろうか。
          春風や東に霞む船二つ
          布乾せば霞の海の白帆哉
などの句を残している。
 なお遺骸は京都黒谷の金戒光明寺に葬られ、遺髪の墓が上田市中央6-4-13月窓寺にある。法名は良鑑院松屋赤心居士。赤松家の墓石に「念ずれば花ひらく」と刻まれていた。
(参照文献:上田市立博物館編『上田藩の人物と文化』)

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五加八幡神社石燈籠

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 教育委員会の説明文にある「造立の克明な由来記」は五加自治会編『五加の歴史』に全文が載っている。建立を発願した若者21名は五加村字下河原の荒廃地1,500坪を開拓して畑を作り、21に分け「自作県畑」と称して桑を植え、毎年その桑を売って得た金を蓄積すること17年後、明治10年に桑畑を売却して1,161円80銭3厘を得、石材の蒐集に着手した。由来記附記に、「笠石   別所村字硯石河中より採る」、「下部台石   西塩田村野倉区字石臼沢道路下方の断崖よりきり採る」などと各部位の石材の出所が克明に記されている。
 しかし、「多大の労苦と巨額の失費を以て明治26年3月までの間に、所要石材の大部分を社頭に準備することを得たりしも、事業の困難は予想の外にして、出費また頗る過大にして、我等発起人のみの力をもってしては全部の工事を遂行するの甚だ難きを発見」したのである。明治28年村営(明治22年、町村制施行で五加村は中塩田村五加区となる)に移管。「遂に涙を飲んで」、「我等の遺憾思うべし」などの文字が並ぶ。
 明治31年、実に37年の歳月を要して竣工。その頃丸子町の法住寺に滞在していた勝海舟に揮毫を依頼したと考えられる「修善生洪福」の文字が柱石に刻まれている。
 由来記の終わりに次のようにある。
 ここに夜燈奉献の趣旨並にその由来を叙し以て我等の子孫に告ぐ。(なんじ)子孫よく祖先の苦衷を察し敬神の意を体し、神前の燈火永遠に滅することなきを期せよ。

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雨宮の渡

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以下は案内図にある説明文。
川中島合戦と雨宮渡
 雨宮渡は、往時北国街道の要衝にあって、千曲川渡船場として 川中島の死命を制するほどの重要な拠点でもあり、戦術戦況を 左右する場でもあった。
 史上名高い川中島の戦いは、天文22(1553)年から永禄7(1564)年 までの間に5回あった。その最大の激戦が永禄4(1561)年 の9月9日夜半、上杉謙信は敵武田信玄の策略を事前に察知し、 人馬ともに鞭声粛々とこの雨宮渡を渡り川中島に兵を展 開し、主力同士の戦いが両雄一騎打ちで知られる第4回の八幡原 の戦いである。
 今は当時の要衝雨宮渡も時変り星移るにつれて、千曲川の流れも 北に移り、昔時をしのぶよすがもない。これを地元先覚者は惜 しみ、謙信奇襲の川中島合戦を詠んだ頼山陽の直筆を得てここに 碑を建立し、渡河地点を保存す。
                                  信州千曲市

Bensei     鞭聲粛々夜渡河
    暁見千兵擁大牙
    遺恨十年磨一剣
    流星光底逸長蛇

    鞭声粛粛夜河を渡る
    暁に見る千兵の大牙を擁するを
    遺恨なり十年一剣を磨き
    流星光底に長蛇を逸す



1181年横田河原の戦い、1335年船山の戦い、1400年大塔合戦など、川中島地方は合戦の多かった所のようだ。それだけ重要な土地だったのだろう。
 雨宮の渡公園は八幡原公園ほど大きくはないので観光バスは来ないのかな。ついでだから八幡原の一騎打ちの像の写真を載せておこう。


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夢殿観音戻る

Yumedono 仏像や古美術品が好きで盗みを繰り返していた男が逮捕された。盗んだ文化財3点を会津若松市に売却しようとして住民票を偽造・使用したらしい。窃盗罪はすでに時効成立。男の自宅や実家に53点(時価総額約10億円)の仏像や骨董品があったそうだ。上田市下之郷の長福寺信州夢殿に安置されていて盗まれた銅造菩薩立像(国重要文化財)も見つかった。塩田歴史年表によると7世紀後半に造られた(新聞報道では8世紀になっている)もので夢殿観音と呼ばれている。
 22日に長福寺で一般公開されるそうだが、行けそうにない。いずれ拝観できる機会もあるだろう。

 写真は現在の信州夢殿。昭和17年建立。奈良の法隆寺を模した二分の一の大きさ。瓦も奈良で焼いたものを使用。


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信州の学海

Gakkai 塩田中学校玄関前に石碑がある。鎌倉時代、京都南禅寺開祖の無関普門の書いた「塔銘」の一部が刻まれている。

信州に却回して盬田に(やかた)す。
(すなわ)ち信州の學海なり。(およ)経論(けいろん)(わた)るの學者、(とう)を担い、(きゅう)を負ひ、遠方より来って皆至る。師その席に(はし)り虚日なし。

 塩田平は、北条重時が信濃守護に任じられた頃から、信濃の学問・文化の一大中心地となった。ことに別所の三楽寺(長楽寺・常楽寺・安楽寺)は、いわば、国立大学が三つもあったようなものだと言う人もいる。学問や仏教を学ぼうとする者は、傘を持ち、本箱を背負って遠方からこの塩田へやって来たのだ。

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信州の鎌倉

Koumin大正10年11月、上田市で上田自由大学第一回の講義が行われた。上田市や周辺の村の青年が参加した。
大正14年、中塩田村に、富士山(のち東塩田)村・東塩田村・中塩田村・西塩田村・別所村の五ヶ村組合立公民学校が設立された(写真は跡地)。
別所村からは自由大学や公民学校に通う人が少なかった。やや遠いのと低所得者が比較的多かったためのようだ。
そのころ、別所温泉を観光地として売り出そうと考えた人がいた。柏屋別荘主人斎藤房雄だ。
鎌倉は塩田北条氏など歴史的な縁があること、別所と近辺には古刹が多く雰囲気に似たところもあること、当時鎌倉に上田出身の久米正雄をはじめ多くの文学者が住んでいたことなどから別所を「山の鎌倉」→「夏の鎌倉」→「信州の鎌倉」にしたいと考えたらしい。新進作家高倉輝を応援した動機でもある。
Teru自由大学の人気講師高倉輝も観光地別所売り出しに熱心だった。
大正15年、長唄「風流七苦離の里」を作詞。碑が大湯薬師公園にある。
昭和3年、作曲杵屋佐吉、振付花柳章太郎、鳴物望月長十郎という豪華メンバーで発表された。

ということは、塩田平全体を「信州の鎌倉」と呼ぶのは間違い、かな?
西塩田は別所に近く、前山寺、龍光院、中禅寺、塩野神社などで合格。
東塩田は生島足島神社があるから、まぁ~、合格。
中塩田には~、ない。でも、別所へ電車で行く人全部と車で行く人の過半数は中塩田を通るから仲間に入れておこう。
(参照文献:上田小県近現代史研究会編 『信州の鎌倉別所温泉-歴史と文化ー』)

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大門の高辻

Takatuzi自分が撮ったのに何の写真なのか分からなくなることがある。
これもしばらく考えてから分かった。その前後に撮ったものにヒントがあった。
長和町大門丸岩の大門稲荷神社の高辻だ。

「高辻」とは何か。「高い辻」?辻とは路の交わる場所のことだろう?
実は、辻とは泥土を固めた今の土手や垣の意味の築地(ついじ)のことらしい。
そしてこれは相撲の土俵のようだ。

Inari
左写真の解説文後半に詳しく書いてある。
江戸相撲の浦風が造った隠し稽古場として使われ、雷電為右衛門もここで修行したという言い伝えがあるらしい。
前もって知っていれば、もっと丁寧に、見物しただろうが、通りがかりに偶然見つけたので失敗した。

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所沢をちょっと歩く

Zuigan初めてのところを歩くのに、ザックに地図が入っていなかった。途中、電車の中で気づいた。
西武池袋線西所沢駅で降りる。
とにかく歩きはじめる。靴ずれはだいたい治った。
歩けば何かしら見つかる。
地蔵のような供養塔のようなもの、道端のパン粉のようなものに群がっている鳩20数羽と雀10数羽などの写真を撮りながら歩いていたら、立派な寺があった。
武蔵七党の一つ村山党から分かれた山口氏の菩提寺である瑞岩寺だ。
Zuigan2足利氏満に討たれた山口城主山口高実の墓塔がある。

そこから、むやみに、あちこちと曲がりながら歩いていたら、荒幡富士市民の森や西武狭山線下山口駅に近いことに気づく。
そろそろ疲れていたので駅へ。
この駅の隣が西武球場前駅。
西武球場も行ったことがない。

今日の歩数:約12,000

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道しるべ

Arrow花菖蒲を見に東村山の北山公園へ行ってきた。
近くに、東京都唯一の国宝建造物「正福寺千体地蔵堂」がある。
ハナショウブよりもこの道案内が気に入った。
花の写真も沢山撮ったのだが。

塩田で作った靴ずれがまだ完治していない。
気をつけながら1時間ばかり歩いた。
今日の歩数:約8,500.


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指差し道しるべ

Hoya1上田市保野下宿。九品山林法院のそば。

左の「上田警察署保野分署跡」には明治11~21年間、塩田地区のほか周辺の24か村(計小県郡41か村)を管轄していたことが書いてある。
なぜここに分署を置いたのだろうか。右の道しるべから重要な場所だったことが分かる?

道しるべの下のほうに拳のようなものが浮き彫りになっている。これは指差しているのだ。拳の上に「ぜんく王じ」下に「みち」と書いてある。善光寺道だったらしい。ここを通って室賀峠のほうへ向かったのだろう。
方角を指差している古い道標はあまりないように思うがどうだろうか。

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仁古田飛行機製造地下工場跡

Nikoda3月24日午後3時ごろだっただろうか、仁古田へ行った。地下飛行機製造工場の入口を見ようと思った。雑木伐採作業の車と仕事中の人たちの邪魔になりそうなので入口までは行かなかったが。

地下工場を作っていた当時は中塩田に住んでいた。当然のことだが全く知らなかった。60年後にTVニュースで知った。


追記(07/8/13)

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小松姫の墓

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上田市常磐城芳泉寺(3/25)



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武蔵国分寺七重塔跡

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 武蔵国分寺は数回行っている。万葉植物園が素晴らしいのだが、七重塔跡に寄っていないのが気になっていた。七重塔が現存するなら見に行くのは分かるが跡を見たってしょうがないといえばしょうがない。それでも、人様に迷惑をかけるわけでもないから、見に行ってきた。べつに面白くはなかった。

 実はそれでいいのだ。主目的は歩くこと。ついでに殿ヶ谷戸庭園など国分寺市内を歩き回った。歩数計は17,000を越えていたので大成功。


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庚申塔

kosin001 朝方は雨だったが、昼過ぎになって日がさしてきたので一時間ほど散歩してきた。初めての道ではないが、途中に庚申塔が二つあった。庚申塔も道祖神同様字が彫ってあるだけのものが多いが、なかには興味深いものもある。ただ、地元の人々の事情だけでなく自治体の財政の都合にもよるのか、文化財として大切にされているものと放って置かれているものとがある。大木のかげの写真のものは何とも不思議なことになっていた。調べてみたら、文化財として登録はされているようだ。

 今時、庚申塔なんぞに関心を持つ人はいないだろうと思っていたが、検索してみたらホームページなどが沢山出てきた。10数年前、目黒区の「田道庚申塔群」を見て興味を持ち、都内や長野県(とくに松代)の庚申塔の写真を撮って歩いたことがある。すぐに熱が冷めてしまったが、いまでも、たまに、面白いのに出っくわして足を止めることはある。

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イボ神様

iboようやく見つけた。大きな石の真ん中に直径40cmぐらいの穴があって、いつも水がたまっている。この水をイボ(地元のお年寄りはエボというと思う)につけると治るそうだが、そういうことに関心があったのではない。
 昔、大和朝廷が七道を開いた。その一つ東山道は都から美濃国を通り、伊那~松本辺り~保福寺峠~青木の浦野駅(うまや)ときて、信濃国分寺~碓氷峠に向かうにはどこかで千曲川を渡らなければならない。亘理駅(わたりのうまや)がこのイボ神様の所にあったという有力な説がある。

 昨夏、四賀村から保福寺峠に車で上った。ウエストンが絶賛したというアルプスの眺めは天気や木立のせいでよくなかったが、万葉歌碑(信濃道は今の墾り道刈りばねに足踏ましなむ履はけ我が背)や峠の茶屋跡などに興味津々だった。その後、浦野宿辺りも数回でかけた。

 そこで「イボ神様」を探し始めた。塩田の人に聞いても知らないと言う。千曲川右岸、古舟橋付近を何度も車で回ったが分からない。検索で「葡萄の木」というレストランのそばにあると知ったが、車で行くとグルグル近くを回るだけ、通りがかった人に尋ねてもダメだった。
 今回は見つけるまで歩くことにした。こういうのは年配者に聞くのがよいだろうと思っていたら、庭の手入れをしているおじいさんに会った。すぐに分かった。やはり歩かなければいけない。といっても、別所線赤坂上駅で下車、常盤城までを往復したのだから、余計な所を歩きすぎた。歩数計は20,000歩を越えていた。

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